スタインベック「怒りの葡萄」を読んだ。


 何を今更この小説なのかと思われるでしょうが、実はこの本、私が高校生の頃に買ったもの。以来、何度も読みを試みるも、今まで50p以上読めた試しがなかった。何回挫折したことだろう? ともかく本の出だしの自然描写とかが、くどくて本編に入りこむことが中々出来なかった。
 それからン十年。思いっ切り日焼けして埃をかぶった状態の本書を見かけ「もう一度チャレンジするか」とばかりに読み始めた。そしたら、それ程苦もなく読破できた。本を読むというのは、読む側の変化と言うのも重要な要素なんでしょう。

 この本、今この歳になって読んだからこそ、かなりクールに感想を持つこともできたと思う。
 学生時代、左翼的思想や宗教哲学的な分野に興味を持っていた頃があったが、その時にこの本を読んでたら「社会主義的教養名作」とか「聖書に通ずる大作」とか、まぁそんな印象で思いっ切り染まりまくった事だと思う。そういう色彩は確かに強い。

 実際の1930年代米国の農産業の変革期と天災をモチーフに、労働者サイドから語られている本書、資本家による搾取の横行と読めば、これが後の資本主義大国において展開されたというのは興味深い。革命とかが起きれば形こそ違えどもロシアや中国と似たような展開が起きたかもしれないのに、そうはならなかったアメリカ。貧富の格差とか失業問題などは水面下では今も引き継がれている気もするが「自由の国」と言う事で自己完結する妙な価値観が定着している風でもある。現代、社会主義も資本主義も臨界点に達しているので、どちらの思想がどうのとかは言えない。目指すべき価値観はもっと違うステージにあると私は思うので、そういう側面での本書の良し悪しは脇に置いておきましょうか。
 もっとも、警察権力の暴挙みたいのは、当時も今も流石アメリカだなと感じた。結局はその土地その土地における排他主義とか、自分主義、利己主義、狩猟民族的DNAのなせる技なんだろうか。これ、キツイ言い方を許してもらえるなら、虐げられている側の労働者サイドにも内包してることなのだよね。
 本書の中でもちょっとくらいは触れられていたが、元はと言えば米国の大陸は先住民族のものだった筈で、資本家にせよ労働者にせよ入植してきた侵入者であることには変わりない。100歩譲るとするなら、その子供、孫の代には「自己の経験」ではない過去のことなので、それを責められても困るってのは判る。しかし、占有する事、それが所有する事に繋がるという発想はどうやら沁み込んでいるみたいな、そんな気がした。

 よそ者を排除し、強者である(権力を笠に着てる)ことを再認識するためにも弱者を虐げる手法は半端じゃない。これ、本書からン十年後のヒッピーに対する排斥ムーヴメント(映画「イージー・ライダー」)にも同じ臭いがあった。
まぁ、これ、程度の差というかスタイルは違うかもしれないが、日本だって同じだわな。人のこと言えたもんじゃないとも思う。

 強いものに虐げられてしまう経済的弱者の悲哀。それは、とてもやりきれないものがある。本書ではその弱者の、これでもかと言う程の苦労と、生きることへの努力・執着が見事に描写されている。しかし、経済的強者サイドを悪者とは語っていないところが興味深い。現在の米国ハリウッドでの主流となっている「勧善懲悪」スタイルとは一味違う泥沼さ加減がある。ピューリッツァ賞を獲得するだけはあるね。格調高い作品だ。

 あまり「斜」に構えずに、先ずは「ストレート」に読んでみることをお勧めします。そして、読み終わってから読後感を反芻しつつ、段々「斜」に構えるようにすることもお勧めします。
着眼点というか、読み手の価値観の位置をずらすと、全く違う読みものにもなってくるぞ。そういう意味でも深い作品です。