ライザ・ミネリを評価するのが恥ずかしかった時代

 73年頃にベトナム戦争が終わって、それ以降の音楽の世界ってのは物凄い変貌を遂げた。そういうの、音楽だけじゃないけどね。音楽の世界に関して言えば、その象徴的存在が言うまでもなくポップスであり、中でも「アメリカン・ポップス」はその後、一世を風靡するに至る。ここで、どんなアーティストがいたのかを書こうとするととんでもないことになるので、まずは本日、急に思い出した女性シンガーをば。


ジュディ・ガーランドの娘、ライザ・ミネリ


 当時、ロックに傾倒していた私にとって、こういったボード・ビリアンな精神の後継者ってのはあんまり好きになれない対象だったが、エンター・テイナーとしての解釈を考えたら、ベット・ミドラーとかも好きな私だったから(ジャニスの映画をやったからとも言えるけどね)、はっきりと境界線を打っていたわけでもなさそう…(^^;


 でもやっぱり、ショウ・ビジネスは本筋をひん曲げてしまっているような、大衆迎合の軟弱精神のような気もしてたし、実に複雑な思いが交錯する。
 当のライザ・ミネリも女優なのか歌手なのかと言えば、元をただせば女優が本業。ところが、劇中での歌唱能力はやはりすごいものがあって、華のあるステージングってのは、やっぱりこういうもんなんだろうなと感じざるを得ない。映画「キャバレー」とか凄かったもんな。
 で、潜在意識の中には思いっきり染み込んでいるくせに、音楽の話とかを友達とするとなると、途端にそういうのをNGにしたがっていた私。
音楽一本で頑張っている人を評価する立場に立っていた私にとっては、二足草鞋は評価してはならなかったのだ。まして、ロックに傾倒していることを示すためには、他のジャンルをけちょんけちょんにしてナンボだとも思っていた。実に狭量。。


…でもね、面白いことに、歳食うとね、そんなもん、かるーくOKにしてしまえるアバウトさが脳内で醸成されてくるんです。
肩肘張ったり、ツッパったりしてるのが滑稽にしか見えなくなってくるんだよね。


その昔は、商業主義に走る音楽を「蔑みの目」で見て「バッカじゃねー!?」なんて言ってたけどね。


今じゃ、大衆に迎合している音楽に対して「バッカじゃねー!?」と吠えている人を見ては「青いねー。」なんて感想が出ちゃうもんさ。


そうだなぁ、今も昔も変わらないとすれば、大衆迎合サウンドを「凄い、かっこいい、名曲だ」などと『本気で』思っている人に対しては、そいつの薄っぺらさを感じることくらいかもしれない。


おっと、脱線しちった。


じゃ、ライザ・ミネリについては、また後日ということで。


ライザ・ミネリってさ、個人的には「紅の豚」のジーンにかぶるんですが…)